本内容は、インフロニアグループの能登震災復興への取り組みを取材した社内報「ITSUTSU-BOSHI(五つ星) 能登震災復興特集(2025年8月発行)」に収録した内容の完全版になります。
日本海に突き出た能登半島の先端に位置する珠洲市は、2024年元日の大地震と9月の豪雨の二重災害により、特に甚大な被害を受けた。道路や通信の寸断により多くの集落が孤立化するなか、地域住民が力を合わせて困難を乗り越えてきたという。各地域でどんなことが起こっていたのか。珠洲市長の泉谷満寿裕さんに、印象深いエピソードや震災から得た教訓、復興に向けたまちづくりのビジョンを伺った。
―― 大地震のみならず豪雨にも見舞われ、特に珠洲市は大きな被害を受けていますね。
泉谷 満寿裕さん(以下、泉谷)
道路や上下水道、河川、港、農地、農業用施設など、至る所であらゆるインフラがダメージを受けました。住宅の被害も甚大で、約5,600世帯のうち約3,900世帯が半壊以上、およそ7割です。そのうち全壊が約3割の約1,770世帯と、非常に厳しい状況です。
地震によって亡くなられた方が97名、奥能登豪雨で亡くなられた方が3名おりまして、災害関連死の方も73名と、多くの尊い命が失われました。
―― 地震発生時、泉谷市長はどちらにいらっしゃいましたか?
泉谷
自宅におりました。最初の震度5強の揺れがあったとき、市役所に向かわなければと、すぐ防災服に着替えて外に出ました。ですが、少し肌寒かったので、もう一枚着込もうと自宅に戻り、2階で着替えているときにとてつもない揺れが起きて。それがマグニチュード7.6の激震でした。窓のサッシが弾け飛んで、もう本当に、すべてを破壊し尽くしてしまうんじゃないかと思いましたね。廊下で襖などを押さえながら、「鎮まれ!」と叫んでいたように記憶しています。
揺れがおさまって外に出ようとしたところ、玄関の戸が開かないんです。家が歪んでしまっていて。なんとか別なところから外に出てみると、向かいのお宅の外壁が崩れ落ち、電柱が大きく傾き、数軒隣のお宅は1階部分が崩れて屋根が道路にはみ出していました。道路の亀裂も所々ありましたし、宅地と道路にも段差がついていました。自宅から市役所までは歩いて5分ほどなんですが、そんな変わり果てた景色に何とも言えない心境で急ぎ足で向かい、市役所が視界に入ったときちゃんと建っていましたので、少しだけ安心しましたね。
―― 市役所に入ってから、まずどのようなことに着手されましたか?
泉谷
真っ先にしたのは、馳浩石川知事に携帯で電話し、自衛隊の派遣と、防災ヘリを飛ばして上空から大規模な土砂災害が発生していないか確認していただきたいとお願いしました。それから、2度目の地震のすぐ後には、Jアラートで大津波警報が発出されていて、市役所の3階より上が津波の一時避難場所になっていますので、その体制を整えなくてはと思いました。ただ、道路が至る所で寸断されていましたので、市役所までたどり着けない職員もいました。参集できた職員は、市役所に避難して来られた住民の誘導などに当たったり、情報収集に努めたりしました。
珠洲市では全体を大きく10地区に分けており、それらをさらに160の集落に細分していて、各地区に区長がいます。災害時には、総務課の職員が自分の担当エリアの区長に一斉に連絡して被害状況を確認することになっているのですが、停電や基地局の被災などにより携帯がつながりにくくなっていた地区も多く、被災状況が見えない。特に、4〜5m規模の津波が押し寄せた内浦側(富山湾に面した沿岸部)の宝立町(ほうりゅうまち)の鵜飼(うかい)地区と春日野(かすがの)地区、三崎町(みさきまち)の寺家(じけ)地区、飯田町(いいだまち)の被害状況を把握するのが困難でした。
市役所では、非常用電源で電灯をつけることができても、コンセントが通電していないため、テレビでニュースを見ることができませんでした。結局、県の防災ヘリは、日没が近かったので飛ばなかったんです。そんななか、各地区の消防団と分団の団員が状況を報告してくださり、とてもありがたかったです。どこどこの家は全壊で、おそらくその下に人がいて押し潰されているのではないかという情報も入ってきました。そういった、断片的な情報が頼りでした。
―― 情報を入手しづらいなかで、どんなことを重視して対応に当たっていたのでしょうか。
泉谷
とにかく、人命救助を第一に考えました。地震と津波で助かった命をどうつなげていこうか、水と食料をどうやって供給しようかと。オンラインで石川県の災害対策本部と常時つながり、要望を出させていただきました。まずは水と食料を、珠洲市民1万2000人分届けてほしいと。それから、乳児や高齢者のおむつ、女性の生理用品などの物資。あとは仮設トイレですね。それからすぐに、パンを1万2000人分積んだトラックが珠洲に向かっているという情報が入ってきたんですが、2日の夜、通行止めで穴水(あなみず)で止まってしまったと。ですから、3日の午前5時頃に職員たちが車5台で穴水まで受け取りに行き、お昼ぐらいに戻ってきて、やっと配ることができました。
救援物資が届き始めたのは4日です。リエゾン(※)や各自治体の対口支援、短期派遣の職員が入られて、浜松市が対口支援の統括をしてくださいました。物資の拠点を市の中心部にある健民体育館にして、その隣の緑丘(みどりがおか)中学校のグランドをヘリポートにして、ヘリで運んだ物資を隣接する体育館に搬入するという体制をとりました。5日の午前7時ぐらいに行ってみると、すでに各避難所ごとに水と食料が分けられていて、自衛隊の車両が到着するたびに積み込まれ、次から次へと出発していきました。それを見たとき、だいぶほっとしましたね。これで物資の配送体制は構築されたと。
―― お話から緊迫していた状況が伝わってきます。ここ(応接室)に関係者が集まって対策を講じていたのでしょうか。
泉谷 そうです。この部屋に40人ぐらい、朝7時と夜7時に集まって、情報の共有を図っていました。自衛隊、消防、警察関係の方々、医療ボランティア、支援団体の方々など。幸い、支援団体の方々との関係は、2024年の5月5日に発生したマグニチュード6.5の地震のときから続いていたので、いち早くお集まりいただけて、非常に心強かったですね。
―― 避難所をまわって見聞きしたことで、特に印象に残っているのはどんなことでしょうか。
泉谷
外浦側(日本海に面した沿岸部)のほうは、みなさん津波で高台に避難したあと、少し状況が落ち着いてからちょっと自宅に戻り、それぞれ食料を持ち出してきたそうです。お正月でしたから、おせち料理の残りとかお餅とか。あるいは、元日の夜に家族ですき焼きを食べようと思っていたからと、そのお肉とか。集会所や避難所に食べ物を持ち寄って、みんなで分け合って食べたと聞いて、心があたたまりましたね。
あと、三崎町の寺家地区は津波にも襲われましたが、亡くなられた方は一人もいませんでした。これは、三崎町の4名の区長が、日頃から競い合うように防災に取り組んでいたからです。何かあったら高台にある集会所に避難することが周知されていたので、最初の地震のとき、すでにみなさん避難を始めていたと。なおかつ、避難所に来ていない方を探しに戻ったと。その方は倒壊した建物のなかにいたので、みんなで瓦を取ったり屋根を突き破ったりして、そこから引き出したそうです。その方は腰の骨が折れていたそうですが、ドクターヘリと連携して一命を取り留めました。救助活動に、地域の方々が当たっていたんです。
―― 市民のみなさんの絆、つながりの強さを感じます。
泉谷 本当に、地域のつながりや絆が功を奏したというか、こうした大規模災害時に活きるということを実感しましたね。珠洲市では94カ所に7,600人の方が避難されていたんですが、うち78カ所が自主避難所で、各地区の集会所で、みなさんが支え合われた。いろんな職業の方がいますから、それぞれが自分のできることで力を発揮して、全体がまとまっていくという。たとえば、集会所にユニットバスを自力で設置して、漁協からもってきた貯水槽をつけて、順番にお風呂に入っていたところもあって、ここまでできるのかと驚きました。
―― そうした地域の団結力は、どういったところで築かれているのでしょうか。
泉谷 各集落に区長がいて、区費を集めて自分たちで自治運営していることが大きいと思います。草刈りや海岸清掃、側溝掃除といった地域の保全活動など。それから、先祖代々継承されてきた祭りや文化活動ですね。たとえば、江戸時代から続く「キリコ祭り」というのがあって、各集落の神社毎に行われてきました。こうした祭りによって、地域のつながりや絆が育まれてきたのだと思います。
―― 珠洲市は道路の寸断で多くの地区が孤立し、なかでも大谷(おおたに)地区は9月の豪雨による被害も大きく、復旧作業が長引いたそうですね。
泉谷 そうですね。大谷地区は、地震後の水道の復旧に時間がかかりました。5月の下旬にやっと復旧したかと思ったら、9月の豪雨で山が崩れ、土砂で大谷浄水場が埋まってしまい、再度断水。それだけでなく、その土砂崩れで亡くなった方もいて、絶望的な状況でした。そんななか前田建設工業の方々が、あれだけ膨大な土砂に埋まった道路を、わずかひと月で通れるようにしてくださいました。その道路が通れるようになったことが、どれだけ大谷地区のみなさんに希望を与えたか。みなさん、非常によろこんでいました。
―― 今回の大地震や豪雨災害の経験から学んだことや、課題に感じていることを教えてください。
泉谷 上下水道の復旧にしても停電の復旧にしても、人命救助や支援物資の運搬にしても、まずは道路が通れないことにはできません。ですから、まずは道路を、応急的な復旧でもいいからとにかく通れるようにすることが重要だと、つくづく感じました。 br通信の遮断も大きな課題です。どこが孤立しているかすら把握できませんでしたので、スターリンク(Starlink)(※)の設置も進めていく必要があると考えています。
それから、住宅の耐震化です。2000年以降に建った住宅は、ほとんど大丈夫でした。これまでも助成金を出すなどして耐震化を促してきましたが、なかなか進みませんでした。住宅の耐震化は、ご近所の方の命を守るためにも必要だということを認識いただきたいです。倒壊してしまうと、ご近所の方も避難できなくなりますから。
あと、スマホのなかにマイナンバーカード機能を取り込むことができれば、スマホ一つで状況を把握できます。あるいはスマホを使って、珠洲市で震災前から取り組んでいる地域通貨で必要な物資を買えるようにするとか。そういったことも含めて、防災DXを進めていきたいと考えています。そんななか、情報発信の部分を担ってくださった神戸市の職員の方々が、珠洲市の公式LINEを通して情報を発信してくださったのですが、これが非常に有効でした。
―― 復興に向けたまちづくりについて、お考えを教えてください。
泉谷
2024年の6月、8月、12月と10地区をまわり、新たなまちの形をどうしていくか議論しました。現在も、地域のみなさんと行政とでキャッチボールしながら進めているところです。地域のみなさんの声を、ていねいに拾い上げていきたいです。
復興のためには、経済をどう回していくかということが重要です。そのために、観光に力を入れていく必要があります。珠洲には古から受け継がれてきた里山里海の営みと、地域に根ざした伝統の祭りがあります。たとえば、漁師町の蛸島町(たこじままち)には、250年続く伝統行事「早船(はやふね)狂言」があり、地震によってその舞台があった高倉彦(たかくらひこ)神社が被災してしまいましたが、2024年9月は舞台を蛸島漁港に移して開催され、地域のみなさんの手で伝統がつながれています。そのほか、2017年から3回開催してきた奥能登国際芸術祭や、2026年に予定されているトキの放鳥、引退競走馬を「珠洲ホースパーク」で受け入れる日本中央競馬会との取り組みなどを復興への光として、アートや先駆的な技術を取り入れ、より魅力ある最先端のまちづくりを目指していきます。
―― 最後に、泉谷市長にとっての珠洲市の魅力をお聞かせください。
泉谷
美しく豊かな自然ですね。能登半島の先端にあり三方を海に囲まれて、景観が美しい。食も充実していますし、何よりも人が素晴らしい。今回の震災によって、まち並みだけではなくて、景色、それどころか地形までもが大きく変わりました。変わってしまった景色を元通りにするのは難しいので、また新たな魅力を見い出しながら、将来につなげていきたいですね。
それから珠洲市では、復興を通したまちづくりを進めるに当たり、「自然との共生」を掲げています。そんななか、この地に日本風力開発(JWD)の発電所があり、持続可能な自然エネルギーが供給されるということは、珠洲市のイメージやブランド価値を高めることにもつながります。運転見合わせとなっていましたが、安全の確認ができたところから、順次、試運転を行い、本格稼働に向け取り組まれています。